アストルチアの謎

ドラクエ10の設定、物語について語る、予定

ドラゴンクエストX v5全体感想(世界観について_その2)


どうも、ほぼ月刊アストルチアの謎です……。
遅くなってしまいましたが、前回の続きです。

astoltianonazo.hatenablog.com


■マッチポンプ的な、異界滅神の大魔王を通じての魔族支配

さて、前回に次回予告したお題です。
前回の最初の方でも少し述べましたが、このシリーズは
個人的な振り返りでもあり、自分の印象や各種設定間の整合性をとりつつ、DQ10の世界観考えていくというものです。
今回は「魔族の人類憎悪ってどんなもん?」という思いが発端です。

・魔仙卿の語る魔界の怨念や、マデサゴーラの「出征の辞」
・v5をとおして感じるゲーム上での人類への差別描写の少なさ
・ユシュカが大魔王になったときに受けていた精神支配
・v5.2でオジャロスが魔瘴を使って民衆を操り攻撃しようとしていた

などを通じての推測になります。



さて、まず5.2で魔仙卿は魔界の成り立ちを話してくれました。見捨てられた魔界の住人たちのアストルティアへの憎しみがあるのだと。なるほど、となりましたが(あの落ち着いた関俊彦ボイスで説明されるとなんでも納得してしまう)、
「でも今は違いますよね?」ともなりました。

これは、5.2までのシナリオやってきての率直な感想でしたし、魔界を旅して、主要人物のみならず、街村の人たちからもアストルティアに対しての恨みごとをとくに聞かず、また、人間に見えるイルーシャに対しても全ての魔族や魔物がわだかまりなく接していました。これらの感想は5.5までやった今でも変わる事はありません。

彼女は魔瘴を消せる救世主的な位置付けでしたが、そういう負の感情はにじみ出るものかと思います。
最初にゴーラに来た時などは、ひとり位は人間のように見えるイルーシャに嫌味でも言うのかと思ったけれど、そんな事もありませんでした。
その後の大魔王城でも、三国の兵士たちに丁重に扱われているようです。

さらに、その後5.3で勇者一行が乗り込んできましたが、勇者は、恐れられてはいましたが恨み骨髄という感じではありませんでした。なんとなく人類(6種族)は幕末明治時代の「異人さん」くらいの扱いのように見えました。いきなり切り捨てられることもある幕末時代に比べても平穏かも……と思っていたのですが、そういえばナラジアは切り捨てられそう(生贄にされそう)になってましたね。
これはイルーシャと同格であるナラジアがそうなっていた事で、逆にイルーシャへの穏健な態度について何らかの神パワーで曲げられてそのようになっていたのかも、という疑いを晴らしてくれました



余談ですが、幕末感ということで言えば、アスバルは蘭癖大名ですし、ユシュカは海援隊(龍馬)だし、武断のヴァレリアは会津感あります。
魔仙卿は朝廷(公家)っぽいし、それに選ばれる大魔王は将軍のようにも見えます。
まあ権威の大もとが闇の根源なんで話しの流れはもちろん違うのですが、キャラ付けや、新時代到来の空気感、いがみ合う陣営の協力、といったところは少なくとも自分は幕末明治っぽい感じも受けました。

さて話を戻すと、言いたかった事は作中で実際にみてとれる魔界の人たちがアストルティアへ抱いている感情は「人の世の理の感情」におさまるもので、しかも悪感情も常識の範囲内ということです。そもそも話してる人もあまりいない。みな日々の生活や、隣国との関係のほうが重要なのでしょう。

作中で描写されていないという可能性もありますが、イルーシャの部屋を掃除した魔族や魔物が実は後で念入りに手を洗っているとか、はあまり考えたくないし、おそらくそんな事は無いのでしょう。そもそも、作中に描写されてないけど実はそうなんだ、というのは少々もにょります。

魔仙卿の話と、現在の描写の落差はどこからくるのか。
最初は「昔はそうだったけど今は違うのか」と思っていましたが真・魔幻宮殿の本棚にあるマデサゴーラの 「出征の辞」 を読むと、

「だが 魔界に住む者たちの アストルティアへの
憎悪と怨念は もはや とどめようがない。
余のうちにも 隠しようもなく その思いはある。」


とあり、普通に数年前までの状況がそのようでした。
(その本拠地のゴーラの民たちが魔界一優しい気がするのだが……)
しかも、マデサゴーラ自身が憎悪と怨念にとらわれていると。
民衆の不満のはけ口として外に攻撃対象をもうけるのは常套手段ですが、
上層部までとらわれているのは、本来切れものの君主である彼らしくないな、と思います。

ちなみに現在の支配層である、大魔王じゃない現在の三魔王は……
A「アストルティア大好き」
Y「アストルティアの賢者に教えを受け、主人公を引き込む」
V「(主人公が盟友だったとは)よくも謀ってくれたな。いや見抜けなかった私が悪い」
などと偏見のカケラもありません。というか好感度やばない?

「出征の辞」時点とv5ゲーム内で注目すべき違いといえば、異界滅神と契約している大魔王が不在な事です。
また、5.5でユシュカが大魔王になったときの洗脳ぶりから見ると、異界滅神が大魔王に憎悪をうえつける事は可能で、そこから魔族や魔物たちに憎しみが伝播されているのではと想像してしまいます。



また5.2ではオジャロスが魔瘴を使って、譲位の儀式に集まった魔族、しかも魔瘴に耐性があると言われる貴族組もリンベリィ以外の全員を完全に理性をうしなわせた状態にして、主人公やアスバルに襲いかからせています。


こういう事ができるなら、こっそりとか公然とかはわかりませんが、魔瘴を操る力を分け与えた大魔王を介して、大魔王の近しい人びとにアストルティアへの(でなくてもいけそうですが)憎しみの心を植え付ける事はできるのかと。
それだけで異界滅神が復活できるだけの量の憎しみや魔瘴を増やすことは無理だったが、大魔王が即位して戦乱もなくなった時にも憎しみを絶やさないよう、異界滅神が魔族の人びとの遺伝子に組み込まれたアストルティアへの憎しみをこっそりと呼び起こしているのではないでしょうか。

だとして、今はマデサゴーラがほろび、異界滅神と契約している大魔王がおらず、魔界全体が憑き物が落ちたような(本来の)状態なのではないかと。
異界滅神は今までは、それを利用して、憎悪をふやして、魔瘴をふやして、自身が復活できればよし、そうでなくてもアストルティアに侵攻して、という流れに誘導していたのではないか。そうだとすればちょっとした永久機関です。

そうなってくると初代大魔王ゴダや魔仙卿ジャディンは異界滅神と契約した理由について少し考えないといけません。

関俊彦ボイスのせいで余すところなく説明された気になっていますが、ジャディンは大魔王や魔仙卿のなりたちや功績、アストルティア侵攻の理由については語ってくれているものの、なぜ魔仙卿と大魔王は異界滅神と契約するのか、ということについては実は説明していないように思います。

そこは行間を読むしかないですが、彼らは上記のデメリットを織り込んだ上で異界滅神との契約をよしとした、のかもしれません。
危険すぎる賭けのようにも思えるが、リスクとリターンを考えてのことなんでしょう。
魔界において、無視することもできない存在なので、異界滅神側から突然ちょっかいをかけられたり、野望ある魔族が変に接触してもこわいので、魔族の代表として魔瘴の大もとと対話していく事を選んだのだと思います。魔仙卿は5.3時に復活間近の異界滅神を抑えていました。そのような力は異界滅神の番人として得たものでしょう。最初にゴダとジャディンの決断がなければ、すでに異界滅神は復活していたか、魔族が滅んでいたか、というギリギリのところだったのかもしれません。
しかし、明敏な大魔王だったヴァルザードも、最終的にはアストルティアへ攻め込んだ事を考えると、異界滅神の精神支配による憎悪は逃れえぬものだったと思います。

異界滅神から見ると、最終的にはルティアナがつくりあげたものは全て滅ぼしたいので、魔族も当然滅ぼす対象です。ただ、もっとも信頼できる配下である邪神等が封印されており、アストルティアに攻め込むための手ゴマが少ないので、大魔王と魔族を利用していたのは想像にかたくありません。それに乗じて邪神なり災厄の王なりを解放できれば、というところでしょう。
しかし、戦力や魔瘴増加のためだけではなく、ユシュカを大魔王化したときにナラジアが言ったように、新しい価値観には興味を示している。そういった新しいものを提供してくれる存在、おもちゃとして愛でていたようにも思えます。堕ちきってしまった魔祖たちなどよりも面白く思っていたかもしれません。



余談。魔瘴増加の遠因が人(魔族)の怨念が原因だとわかっているのならば、禅のような心を無にするような思想が魔界で流行してもよいのでは、と一瞬思ったのですが、まあそんなん殺されますよね。やはり魔瘴の漸増は不可避!

今回はこのへんで終わります。 さて、次回は
■神々のSLG「アストルティア争奪戦」~異界滅神陣営の世界崩壊の戦略は~
に続きます。マイペースが身上ですが、さすがにもう少し早めに書きたいところです……。




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